Texte chinois
曲则全,枉则正;
洼则盈,弊则新;
少则得,多则或。
是以圣人抱一为天下式。
不自见,故明;
不自是,故彰;
不自伐,故有功;
不自矜,故长。
夫惟不争,故天下莫能与之争。
古之所谓“曲则全”,岂虚语?
故成全而归之。
Traduction
不完全なものは完全になる。
曲がったものは直くなる。
窪んだものは満たされる。
古びたものは新しくなる。
少ない(欲望で)道を得る。多い(欲望で)道に迷う。
それゆえ聖人は一(道)を守り、天下の模範となる。
自らを際立てない。それゆえ輝く。
自らを是としない。それゆえ光彩を放つ。
自らを誇らない。それゆえ功績がある。
自らを称えない。それゆえ他者の上位となる。
争わない。それゆえ天下に彼と争える者がいない。
古人の格言「不完全なものは完全になる」は空虚な言葉だったか。
人が真に完全になると、(世界は)彼に従う。
Notes
(「それゆえ」に至るまでの)最初の六つの句はすべて古人から借用した格言である。
Eによれば、「曲(
曲qū)」(俗に「曲がった」)という語はここでは「
缺quē」(まだ完全ではないもの)の意味で用いられている。例えば、まだ満月でない月。この句と次の句は比喩的に解すべきである(第41章、第45章参照)。E:最初の六つの句は、後で老子(
老子Lǎozǐ)が「彼は一を守り天下の模範となる」と言う時に説明される。
例えば、身を曲げたり伸ばしたりして進む蚯蚓(
蚯蚓qiūyǐn)(ミミズ)。
土地が低く窪んでいれば水が集まる。この句が意味するのは(E)、自らを低くする者は間もなく高められる(文字どおりには「増加を受ける」)ということだ。
すなわち、隠遁を求める者はますます輝くということ。
「
少则得shǎo zé dé」、すなわち:要約(本質)を求めることを戒律とする。「
多则惑duō zé huò」、すなわち:広大な知識を持つ者は重要なものをほとんど持っていない。
「少(
寡guǎ)なるもの」と「多(
多duō)なるもの」について、Cは富、または学問によって得られる知識と解している。道の実践では多くの欲望を持つ必要はない。多くのものが混乱を引き起こすからだ。多くの富があれば目がくらむ。学問によって多く習得すれば過剰な知識が盲目をもたらす。
聖人は知恵を忘れ、学問を捨て、一つのことに心を注ぐ。それゆえ道に達する。そして著者は言う:「少ない欲望で(道を)得る。その多さは我々を迷わせる。」
この世の人々は多くのものを知り、見ようとするが、道からどんどん遠ざかるだけだ。それゆえ著者は言う:「多さは我々を迷わせる。」
道と一体となり、すべての人がその例に倣うことを望む。
自慢せず、自らを目立たせない。
功績があっても自慢しない。それゆえ世界は大きなことの功績を彼に帰する。
人々の上に置かれても、その優位を誇らない。
身を低くして(文字どおりには「身を曲げて」)他者の意見に従う。
我々が争うのは「自我」(独:das Ich)、すなわち我々の個性を持っているからだ。聖人は争わない。自我から解放されているからだ。最も美しい徳は自我から解放されることだ。そうすれば、天下のどの人が我々と争えようか。
Aliter B:人々は心の底から喜び、誠実に彼に従う。その功績を聖人に帰す(
归guī)べきである。
Aliter C:彼らはその生まれながらの素朴さに帰る(
归guī)。